『娘に自分の仕事をばらす時』
私の名前は天馬ふぇみお。凌辱系専門のエロ漫画家である。
私には、いつも白く濁ったドロドロの涙を流す身長5センチくらいの可愛い息子はいるが、残念ながら娘はいない。
faec8c90.jpg
↑息子近影
しかし、いつか結婚し、その女性とセックスして生で膣内出ししたら、妊娠して娘が出来るかもしれない。私はその娘にきっと、由紀恵と名づけるだろう。そして、由紀恵は成長し、小学生になり、授業参観前に「お父さんの仕事」という作文を書かされる日が来るかもしれない。そんなときに、娘に自分の仕事をどう説明するか、それはエロ漫画家にとっての永遠のテーマといっても過言ではない。そこで今回のテーマは『娘に自分の仕事をばらす時』とした。
↑娘 近影(予定)
@第一章 セックスと膣内出しと哲学
このテーマはあまりに壮大すぎて、まずは人生そのものについて思想をめぐらせねばなるまい。
人は何の為に生きるのか?それは人間にとって永遠のテーマであり、人間の悩みの根源といっても過言ではあるまい。ゴータマ・ブッダ、ジーザス・クライスト、ソクラテス、幾多の宗教者、哲学者達がまさに人生をかけて追求したテーマもこれである。
しかしながら結局のところ、何人たりとも、万人が納得できるような答えを導き出す事は出来なかった。こればかりはいつの時代になっても、人それぞれが自分なりの答えを見つけ出すしかないのだろう。もしくは答えを見つけ出せないまま悩みつづけて一生を終えるかだ。
私の友人で早稲田大学第一文学部哲学科卒の加●拓という男がいる。彼は、この問題に対して実に明解な答えを導き出してくれた。私としては納得できないのだが、少なくとも彼は大学4年間を哲学の勉強に捧げた挙句にその境地にたどり着いたのだ、それをただ笑って流すわけにはいくまい。彼曰く・・・
人生とはセックスの為にある
ということらしい。結局のところ、彼は大学4年間は、この簡潔な一文に集約されるわけだ。
実際、生物学的に考えれば、これ以上正しすぎる答えもあるまい。生物はそもそも、自分の遺伝子を後世に残す為に最も効率の良いような人生を送るようにプログラミングされているのだ。リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子説」は決して絵空事ではなく、今までの生物学の常識ではうまく説明のつけられなかった子殺し等の現象についても実に合理的解釈を与えてくれている。
●藤拓は言う。
「昔、ローマの市民は奴隷に全ての仕事をやらせ、自分達は遊びほうけて暮らしていた。早い話がセックスしまくっていて、それで人生満足していたんだ。皇帝の夫人の座に収まっていながら、やりたい一心で唱館で売春婦として働いていたような女もいたくらいだ。しかしだな、世の中には包茎だったり早漏だったり不感症だったり、もしくは単純にモテなくて女をゲットできない故にセックスを楽しめない人間もいる。哲学者っていうのは基本的にそういう人間ばかりで、だから周りが幸せそうにセックスしているのを尻目に『やつらは人生を無駄にしている。快楽にゆだねる人生など生に対する冒涜だ』と屁理屈をこねて自らのプライドを保っていた訳だ。
人間には人生にリアリティーを感じられる瞬間(=セックス)があって、セックスでリアリティーを得られない可哀想な奴らが哲学なんてものを考え出したんだな。」
↑確かに古代において楽しみといえばセックス
くらいのもんだったのかもしれない。
彼が卒業論文においてこの自説を声高々に展開したかは定かではないが、卒業できているということはおとなしく自粛して、そこらの哲学書を丸写しして手堅く済ませたのであろう。
ちなみに彼は、一晩に最高16発やったことがある、と豪語する性豪である。一発で打ち止めの私とは大違いである。
彼の理屈を真実とするならば、私は紛れも無く、哲学者である。
私の文章は、『おちゃらけた文体の中に文学的、かつ哲学的な崇高さが溢れていて、作者の知性と深い人生哲学が感じられる』いうのが大方の評者の意見であるが、その裏には「セックスに生きてくことのリアリティを見いだせない」という哀しい事情があるのだ。
さて・・・私はいったい何の話をするつもりだったのか・・・・
そうだ、『娘に自分の仕事をばらす時』についてだ。
もし、娘が生まれ、『お父さんって何してる人なの?』と無垢な瞳で見つめらながら問われたら、胸を張って、『父さんはね・・・哲学者なんだよ』と答えようと思っている。
では何故、私がセックスに人生のリアリティを感じられないのか・・・次回はそのことについてじっくり論じてみようと思う
-続く-
私の名前は天馬ふぇみお。凌辱系専門のエロ漫画家である。
私には、いつも白く濁ったドロドロの涙を流す身長5センチくらいの可愛い息子はいるが、残念ながら娘はいない。
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↑息子近影
しかし、いつか結婚し、その女性とセックスして生で膣内出ししたら、妊娠して娘が出来るかもしれない。私はその娘にきっと、由紀恵と名づけるだろう。そして、由紀恵は成長し、小学生になり、授業参観前に「お父さんの仕事」という作文を書かされる日が来るかもしれない。そんなときに、娘に自分の仕事をどう説明するか、それはエロ漫画家にとっての永遠のテーマといっても過言ではない。そこで今回のテーマは『娘に自分の仕事をばらす時』とした。
↑娘 近影(予定)
@第一章 セックスと膣内出しと哲学
このテーマはあまりに壮大すぎて、まずは人生そのものについて思想をめぐらせねばなるまい。
人は何の為に生きるのか?それは人間にとって永遠のテーマであり、人間の悩みの根源といっても過言ではあるまい。ゴータマ・ブッダ、ジーザス・クライスト、ソクラテス、幾多の宗教者、哲学者達がまさに人生をかけて追求したテーマもこれである。
しかしながら結局のところ、何人たりとも、万人が納得できるような答えを導き出す事は出来なかった。こればかりはいつの時代になっても、人それぞれが自分なりの答えを見つけ出すしかないのだろう。もしくは答えを見つけ出せないまま悩みつづけて一生を終えるかだ。
私の友人で早稲田大学第一文学部哲学科卒の加●拓という男がいる。彼は、この問題に対して実に明解な答えを導き出してくれた。私としては納得できないのだが、少なくとも彼は大学4年間を哲学の勉強に捧げた挙句にその境地にたどり着いたのだ、それをただ笑って流すわけにはいくまい。彼曰く・・・
人生とはセックスの為にある
ということらしい。結局のところ、彼は大学4年間は、この簡潔な一文に集約されるわけだ。
実際、生物学的に考えれば、これ以上正しすぎる答えもあるまい。生物はそもそも、自分の遺伝子を後世に残す為に最も効率の良いような人生を送るようにプログラミングされているのだ。リチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子説」は決して絵空事ではなく、今までの生物学の常識ではうまく説明のつけられなかった子殺し等の現象についても実に合理的解釈を与えてくれている。
●藤拓は言う。
「昔、ローマの市民は奴隷に全ての仕事をやらせ、自分達は遊びほうけて暮らしていた。早い話がセックスしまくっていて、それで人生満足していたんだ。皇帝の夫人の座に収まっていながら、やりたい一心で唱館で売春婦として働いていたような女もいたくらいだ。しかしだな、世の中には包茎だったり早漏だったり不感症だったり、もしくは単純にモテなくて女をゲットできない故にセックスを楽しめない人間もいる。哲学者っていうのは基本的にそういう人間ばかりで、だから周りが幸せそうにセックスしているのを尻目に『やつらは人生を無駄にしている。快楽にゆだねる人生など生に対する冒涜だ』と屁理屈をこねて自らのプライドを保っていた訳だ。
人間には人生にリアリティーを感じられる瞬間(=セックス)があって、セックスでリアリティーを得られない可哀想な奴らが哲学なんてものを考え出したんだな。」
↑確かに古代において楽しみといえばセックス
くらいのもんだったのかもしれない。
彼が卒業論文においてこの自説を声高々に展開したかは定かではないが、卒業できているということはおとなしく自粛して、そこらの哲学書を丸写しして手堅く済ませたのであろう。
ちなみに彼は、一晩に最高16発やったことがある、と豪語する性豪である。一発で打ち止めの私とは大違いである。
彼の理屈を真実とするならば、私は紛れも無く、哲学者である。
私の文章は、『おちゃらけた文体の中に文学的、かつ哲学的な崇高さが溢れていて、作者の知性と深い人生哲学が感じられる』いうのが大方の評者の意見であるが、その裏には「セックスに生きてくことのリアリティを見いだせない」という哀しい事情があるのだ。
さて・・・私はいったい何の話をするつもりだったのか・・・・
そうだ、『娘に自分の仕事をばらす時』についてだ。
もし、娘が生まれ、『お父さんって何してる人なの?』と無垢な瞳で見つめらながら問われたら、胸を張って、『父さんはね・・・哲学者なんだよ』と答えようと思っている。
では何故、私がセックスに人生のリアリティを感じられないのか・・・次回はそのことについてじっくり論じてみようと思う
-続く-
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- エロ漫画道
今度、ネコちゃんとかの写真や色んな可愛いぬいぐるみ画像を作って下さいね。
ヾ(o゚ω゚o)ノ゙