私の名前は天馬ふぇみお、大抵の事はチンポとオナニーに結び付けて笑い話として茶化してしまえる私であるが、流石に今回の地震だけは冗談めかして書くことはできない。シモネタを期待してる方は読まないでいいと思う。

 今回の地震では色々考えさせられた。そのことについて少し書きたい。

 地震当日、トイレでウンコしてるときにいきなり揺れた。最初はよくある程度の地震かと思っていたが一向に収まる気配もなければ家の中のものがどんどん倒れていく。猫たちも右往左往して走り回ってる。私はウンコも拭かずにズボンをはいてとりあえず外に出た。

 余震が何度かあり、そのたびにビクビクしながら外に出て、家に戻っての繰り返し。猫が家のどこかに隠れてしまい、揺れの影響で窓も知らぬ間に開いてしまったので、外に逃げたのかもしれないと思い真っ青になって探したものだ。猫に関しては別の機会に触れよう。

 地震は本当に怖かったが、まだそのときは自分の中では笑い話で済んだ。東北が震源らしく、遠く離れた関東でこんだけ怖かったんだから、近辺の人の恐怖は半端無いだろうな、くらいには思ったが、夕方くらいまでは「死者20名か・・・史上最大規模の割には被害は少なかったんだなぁ」と不謹慎ながら呑気な感想を抱いていた。

 深夜になって、具体的な被害が分かってくるにつれ、不思議な感覚に襲われた。未曾有の災害、とテレビ全局で映画のワンシーンのような衝撃的な映像が流れてくるのだが、自分は普段よりちょっとアクシデントがあった程度でふだんと変わらず生活してる。地球の裏側の話ではなく、同じ国の昔親父と旅行行った場所で、親戚も住んでたりする地域での話なのに、現実に認識が全く追いついてないのだ。

 本当に自分は今未曾有の災害の真っ只中の国で生きてるんだな、と実感を持って感じられるまでには一晩かかった。普段、ニュージーランドで地震が起ころうが、多少は心が痛むが所詮他人事なところがあった。

 今回は他人事とは思えなかった。

 それは現実に自分が地震で感じた恐怖によるところが大きいのだとおもう。

 自分が感じた恐怖とは比較にならない恐怖を被災地の人たちは感じ、そしてそれは自分の住む場所からそう遠くない場所であり、自分が偶然震災当日にその場所に行く事だって有り得た・・・そういった事実があるから、ハイチの地震もニュージーランドの地震も他人事なのに、今回に関しては他人事とは思えなかった。


 で、ここからが話の核心部分なのだが、地震の翌日の土曜日、3月12日、その日私は飲み会に出る約束をしていた。前日の午後まではたいした震災でもないと思っていたので、幹事から「明日予定通り集まるよ」とメールが来ても、特に驚かず「何処に何時?」と返信した。

 一晩たって、被害状況をつぶさに目の当たりにしたら、とてもじゃないが呑気に酒呑む状況じゃないので飲み会をやめようと幹事にいったところ、「皆集まるから来なよ」とメールが来たので「正気か?」と返した。

 そしたら電話がかかってきて、偽善者だとなじられた。

 彼の言うことは間違ってはいない。

 被災者を心配して家でくすぶっていようが、外で愉しく酒呑んでようが、それで何が変わるわけではない。東北で大災害だから飲み会やるのは不謹慎だ、というならば、どんなときでも世界中どっかしらで大災害が起きている。

 ニュージーランドやハイチの地震の時には「異国で人が死んでるんだから飲み会とかは自粛しようよ」と言っても変人扱いしかされないだろうし、実際私はハイチ地震の翌日に飲み会誘われても多分普通に行って愉しく酒を飲んでくるだろう。
 また最初被害者が数十人程度だと思ってたときには、私は飲み会に出る気でいたわけだが、被害者数十人の地震なら飲み会OKで、被害者1000人以上なら飲み会は自粛すべきなんてのもよく考えればおかしな話だ。また国内の震災なら自粛するけど、海外の震災なら気にせず飲む、というのもおかしい。

 ではなぜ、今回の地震の翌日に飲み会をやること、そしてそれに他のメンツは疑問も持たずに集まることに対して、「正気の沙汰じゃねーな・・・」と思ったかというと、結局それは『感覚』というしかないのだろう。

 私にとっては今回の地震はそれまでのほかの地域の地震と違って、他人事ではない。

 自分もまかり間違えば死んでたかもしれない、とか、助かっても愛猫達は見捨てざるを得なかったろうから(実際私は子供のように可愛がっていながら、今回地震から逃げるとき猫を連れてこうとはしなかった)猫のいる建物が津波に飲まれてくのを見ているしかないとしたらどんだけ悲しいだろう、とか、おぼれるときの苦しみはどんなだろう、とか考えてしまう。

 不謹慎だとかそういう問題ではなく、とてもじゃないが愉しく酒を呑む気分にはなれそうもなかった。他の皆もそうだろうと思っていたが、皆はどうやらそうではないらしい。

 これはどっちが正しいとかではなく、『感覚』の問題なのだろう。


 私の感覚では、ニュージーランドで人が死んでも酒を飲めてしまうが、ニュージーランドに知り合いのいる人だったらとても飲む気分になどならないだろう。逆に、私なら近所の可愛がってる野良猫が死んだらとてもしばらくは酒のんではしゃぐ気分にはなれないが、人によってはそんな私の感覚など理解も出来ないだろう。
 それと同じなのだ。『感覚』とはそういうものだ。

 彼にとっては私の『感覚』は「偽善」でしかないし、私にとって彼やそのお仲間の『感覚』は理解の範疇外なのだが、どちらが正しいとは決められない。
 だから議論しても仕方ないし、多数決で正否を決められるものでもないのだ。


 私に出来るのは、自分の感覚と判断は間違ってない信じるだけなのである。

 でも多数決で正否を決めるものじゃない、といいつつも「俺の感覚、間違ってないよね?」と色んな奴に確認とる程度の、みみっちい男、それが私である。

 ちょっと腹に溜まるものがあって、長々と駄文を連ねてしまった。未曾有の大地震だというのに、結局私が考えることは自分自身のことばかりだ。まごうことなく私は偽善者である。そして短小であり早漏でありインポ気味なのである。



 でも実際問題、俺のような矮小エロ漫画家にできることなんて、救助の邪魔にならないように家でおとなしく節電に努めつつ、はした金を寄付することくらいしかないんだよな・・・。