私の名前は天馬ふぇみお、こう見えて高貴な生まれ高貴な育ちおぼっちゃまe-ロマン画家である。

 何しろ父は元環境省の官僚であり、息子の私は幼い頃より英才教育を受けて育った。やがて名門高校に進学し、名門大学を卒業した。
 しかし官僚として社会の表舞台からこの日本をよくしようと汗水垂らし働く父の背中を見て、私はあえて自分は社会の裏側から日本をよくするための仕事をしようと決意し、大学卒業後に就職した会社を一か月で辞め、そして進んだのが、世の老若男女の性欲を煽り、少子化に歯止めをかけるべくこの世の裏で奮闘する高貴な職業、The エロ漫画家という道であった。
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《青春の日々》 

 編集さんにプロットを送る時ですら「マンコ」ではなく「マ●コ」と真ん中を伏字にして表記するくらいに生真面目な私は、当然中学時代も真面目な勉強家であった。
 母上の命で中二の夏から塾に行かされ、そこで厳しい英才教育を強要させられた私であるが、勉強し過ぎたせいで「高校入ってからもう一度大学受験の勉強なんかしたくねーなー」と思い至り、エスカレーターで進学できる付属高校ばかりを受験し、名門「早稲田大学高等学院(通称・早大学院)」に入学したのであった。

 早大学院は卒業さえすれば自動的に早稲田大学へ進学できるので、もう受験の必要はない。

 でも、学院に入学して半年くらいは、私はすごく真面目に勉強した。なにしろ中学の時は勉強ができると周りからチヤホヤされたので、勉強は決して好きでなかったがそれでも「勉強できること」が私のアイデンティティになっていたのだ。
 しかし学院に入って半年もすると、勉強を真面目にやっても誰もチヤホヤしてはくれないし、それどころか英語のノートを真面目にとっても、怠け者たちから「それコピーさせて」と便利に利用されるだけだということに気づく。
 私の勉強熱は一気に冷め、私は授業中ノートもろくに取らず、クラスの優等生からノートをコピーさせてもらう側にまわるようになった。そして授業中はお絵かきばかりするようになっていった。


 早稲田大学高等学院という学校は、制服なしの私服登校で、受験がないから生徒は授業も真面目に受けず、優等生からノートをコピーさせてもらうような小狡い立ち回り方ばかり覚えていく・・・名前の通り本当に早稲田大学がそのまま高校になったかのような雰囲気の場所であった。

 ただ一つ、早大学院が早稲田大学と決定的に違うのは・・・・・女・・・雌が・・・一人もいないというその一点だけであった。

 練馬の僻地に1800人の性欲盛りの少年だけが集められ、女子の目を気にしなくていいから大声で淫語が飛び交い、勉強もせずにエロ本を回し読みし、女子高生とまともに話したことすらない童貞どもがエロビデオを観て覚えたエア前戯の腕前を競い合い、「尊敬する人物は?」というアンケートにクラス50人中6人が『チョコボール向井』と書く・・・それが早大学院という学校であった。
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 そんな環境の中、授業中はもっぱらアメリカ旅行土産の無修正ヌードトランプを参考に人体デッサンをしていた私が、将来的にエロ漫画家という職に就くのはもはや必然と言えた。

 早大学院という特殊な高校で過ごした童貞の日々は、間違いなく今の私という人間を形成する大きなルーツであり、そして大きな黒歴史でもあった。
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ふぇみお18歳(黒歴史)


 とはいえそんな濃ゆい青春を共に過ごした仲間たちとも、高校を卒業すればだんだん会うことは少なくなる。
 高校の仲間なんて、卒業から20年が過ぎた今となってはもはや遠い思い出の世界の住人でしかなかった。

 しかし、SNSという文明の利器の出現によって状況は大きく変わった。なにしろ、長らく会ってない高校の同級生の近況がネット上で簡単に知ることができるようになったのだ。

 童貞のくせにエア舌戯日本一を自称していたあいつが今は一流電機企業で働き子供もいるのか、とか、童貞だけど髪ふさふさでイケメンだったあいつが今はスキンヘッドにしてソムリエやってるのか、とか、童貞のくせにコンピューターの知識に長けていて生徒会質のPCに『同級生2』というエロげーをインスコしていたあいつは今は起業して悠々自適の暮らししてるのか、とか、童貞だったあいつが今は田舎でレストランをやってるのか、とか私は懐かしい思いで彼らの近況を眺めていた。

 そんな折、20年会ってないけど今はソムリエやってるらしい友人、A氏から食事会の誘いが来た。同じく20年あってない友人Ⅿ氏が東京最後の秘境、桧原村でレストランをやっているのでそこでワインと食事を楽しもうというのだ。その食事会には、昔の仲間が他にも何人か来るらしい。

 童貞たちが20年の時を経て再会する・・・それは正に過去からの禁断の招待状であった。

(続)